2020年12月25日金曜日

電流による発熱 中2理科 【テストに出やすい問題シリーズ】

2020年2月4日火曜日

中1歴史 平安時代後期



今回は、武士の登場から平安時代の後期についてお話します。

武士団の登場

中央で藤原氏が摂関政治を行っているころ、地方では政治が乱れ、生活できない農民の中に盗賊になるものが現れてきます。

また、国司の中には、自分の収入を増やすために、農民を苦しめるものがいました。

そこで、自分の土地は自分の手で守ろうと武装する農民が出てきました。

それらを、有力な農民や地方の豪族がまとめ上げ、指導者となって武士団ができてきました。

しかし、豪族同士、武士団同士の対立もあり、これらの武士団をまとめ上げる有力な武士団が必要になってきます。

その武士団になったのが、清和天皇の子孫の源氏と、桓武天皇の子孫の平家です。

武士団は、地方で起きた反乱を武力で解決して力を強め、朝廷も武士団を頼るようになります。藤原氏は、朝廷の警護に源氏を使い、院政の時代院の警護は主に平氏が行っています。


院政の始まり

藤原頼道が天皇に嫁がせた娘に皇子が生まれないことで、摂関家の影響力が低下していきます。

1068年の即位した後三条天皇は、母方が藤原氏でない天皇でした。

このため、摂関家の力を弱めるような政治を行います。

また、1072年に即位した白河天皇も、藤原氏に遠慮ない政治を行いました。

1086年、白川天皇は、天皇を退位し白河上皇となり院政を始めます。

院政とは、上皇が天皇の後継人として天皇に変わって行う政治です。

院は武力の後ろ盾を強めていき、武士との結びつきが強くなり、源氏や平氏が中央に進出していきました。


平家の時代へ

1156年、天皇の跡継ぎをめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起きます。

さらに、1159年平治の乱が起き、ここで活躍した平清盛が力をつけていきました。

1167年、平清盛は武士として初めて朝廷の最高職「太政大臣」になり、自分の一族を朝廷の高い役職に就け権力を独占していきました。

また、今の兵庫県の神戸の港を改修し、日宋貿易にも力を入れました。


2020年2月3日月曜日

中学歴史 かな文字文学の作者たち



平安時代、遣唐使を廃止したことにより国風文化が生まれ、日本語の音を文字で表す「かな文字」が生まれました。

このかな文字で作品を書いた、代表的な3人を紹介します。


紀貫之

紀貫之は、醍醐天皇の命令で『古今和歌集』を編纂しました。

この和歌集の作者たちは貴族が中心で、ここの納められている和歌には、奈良時代の『万葉集』のような素朴さがありません。

紀貫之は自分自身でも本を書いています。

それが『土佐日記』です。

土佐の国守の任期が終わり、都に着くまでのことを書いたものです。

ただこの時代、男はかな文字を使わないというプライドのようなものがあり、日記は女性が書いたという形になっています。

今の日記と違うところは、自分自身をほかの誰かが見ているという形で書かれていて、批判する表現が沢山出てきます。


物語の初め

日本で最初に書かれたという物語『竹取物語』も平安時代にかな文字で書かれたものです。

ただし、誰が書いたのか作者は分かっていません。

かな文字で書かれた文学の作者に女性が多いのは、当時の男性は体面にこだわり、和歌以外ではかな文字を使わなかったからです。

もう一つは、宮廷で皇后などに使える女性が増えて、それらの女性が高い教養を身につけたこともあります。


清少納言

少納言は、宮中での呼び名で「清少納言」というのは実際の名前ではありません。

清少納言に父は「清原元輔」といい、その清原の一文字をとって「清少納言」と呼ばれていたようです。

一条天皇の皇后「定子」に使え、才能のすばらしさは宮廷の中でも際立っていました。

彼女の文章は歯切れがよく、短い言葉の中に複雑な感情を組み込む美しい文章で、男性的で暗さがないのが特徴です。


紫式部

紫式部の「式部」というのも「少納言」と同じで、宮中での呼び名です。

紫式部は役人の「藤原為時」の娘で、宮中での呼び名は「藤式部」でした。

紫式部と呼ばれるようになるのは、彼女が亡くなった後で、『源氏物語』に登場する「紫の上」という女性にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。

紫式部は、一度結婚しますが夫が亡くなり、その淋しさを紛らわすために『源氏物語』を書き始めました。

宮中に上がったのは、藤原道長が『源氏物語』の評判を聞き、一条天皇の中宮だった娘の「彰子」の女房(女官)に望んだからです。

紫式部は、まじめで控えめな性格でしたが、おおらかさを持っていました。

彼女の人間に対する深い観察力は、物語の登場人物の心をきめ細やかに描き出しています。



2020年1月31日金曜日

中学歴史 最澄と空海



平安時代の前期、唐から新しい仏教を伝えた「最澄」と「空海」について説明しました。

この二人が伝えた仏教は、それまでの仏教とどこが異なっていたのでしょうか?

それまでの仏教は、僧が修行で悟りを開くことが目的でしたが、新しい仏教は「すべての人々を救う」という面を持っていました。

最澄は、法華経を重視し、僧が厳しい修行をすることによって人々を救うことができると考えていました。

これに対し空海は社交的で、どのようにしたら自分の教えが人々に分かりやすく伝わるだろうかと、常に工夫をしていました。

最澄

767年、最長は、今の滋賀県大津市で生まれました。12歳で近江の国分寺住職の弟子になり、その後僧になって名前を最澄とします。

19歳で東大寺から正式な僧として認められ、比叡山に小盛修業しました。

707年、内供奉となり、そこで桓武天皇に見いだされて、804年に還学生として唐にわたりました。

最澄は唐についても長安にはいかず、天台宗が開かれた天台に行き、そこで多くの高僧から仏教を学びます。そして、約350巻の仏教典を書き写し、翌年帰国のときに持ち帰りました。最澄が持ち帰った経典は、これを含めおよそ460巻だそうです。

806年、桓武天皇の保護を受け、天台宗を開き、比叡山に延暦寺を立てました。

最澄は、中国から帰国した空海とも交流しましたが、考え方の違いから数年で交流は途絶えました。


空海

空海は、774年、今の香川県善通寺市に生まれました。15歳で学者のおじから儒教を学び、18歳で都の大学に入りやく人になるための勉強を始まます。

しかし大学で、一人の僧と出会い、仏教の道に入る決心をして大学をやめ、四国の山中で修業を始めました。

31歳のとき東大寺の戒律を受け正式な僧となり、その年留学生として唐に渡ります。

このときの遣唐使船の別の船には、最澄が乗っていました。

長安では青龍寺の高僧「恵果」から教えを受け、その能力が認められ、遍照金剛という名前を与えられ、恵果の後を継いで「密教第八祖」となりました。

留学生として20年長安で勉強する予定が、2年で帰国し、このため朝廷は空海が都に入ることを許しませんでした。

しかし、809年、嵯峨天皇が即位すると京都に入ることを許されます。

816年、朝廷から高野山を与えられ、3年後に金剛峯寺を建立。

823年には、京都の教王護国寺(東寺)を与えられ、真言宗を広めました。

828年、京都に「綜芸種智院」という僧でなく一般の人も儒教や仏教を学べる機関を作りました。


2020年1月27日月曜日

中学歴史 桓武天皇と長岡京



桓武天皇といえば、都を平城京に移したときの天皇ですが、平城京の前に長岡京という都を作っていました。その長岡京と桓武天皇について動画で話しました。

桓武天皇が誕生するまで

770年、称徳天皇が独身のまま、後継ぎを決めずに亡くなりました。

そこで、藤原百川が、「白壁王を皇太子にする」という偽の遺言を発表、62歳の光仁天皇が誕生します。光仁天皇は、天智天皇の孫にあたり、奈良時代天武天皇系で受け継がれてきた皇位が、天智系に移ります。

光仁天皇は即位すると、皇后の井上内親王の間に出来た他戸親王を皇太子にします。

ただ、井上内親王は聖武天皇の皇女、天武系の人物です。

藤原百川は、井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたとして、幽閉、地位を奪い、2人は亡くなってしまいました。

そこで、光仁天皇の長男、山部親王が皇太子になり、781年に即位して桓武天皇が誕生します。このとき桓武天皇は45歳でした。

なぜ長男なのに、皇太子になれなかったかというと、桓武天皇の母は渡来系の子孫で、身分が低いと考えられていました。このため桓武天皇は幼いときに寺に預けられ、一生を僧侶として過ごすはずでした。

しかし、藤原百川のおかげで、父が光仁天皇に即位し皇族に復帰、朝廷で働けるようになり、更に天皇にまでなったのです。桓武天皇は、藤原百川を私の恩人だと言っています。


長岡京造りへ

長い間朝廷の仕事をして、政治の問題点を知っていた桓武天皇は、優れた人材を重要な役につけ、能力の低いもの、不誠実なものを役から外しました。

更に、貧しい農民のための改革も行いました。

平城京では、都の中に寺院が多くあり、仏教勢力が政治にまで影響を及ぼしていました。

これを改め、律令政治の立て直しを図るため新しい都を作ろうと決心します。

これが長岡京です。

場所を決めた理由は、交通の便がいいこと、桓武天皇と、都造りの責任者である藤原種継の母の実家があったことです。

これによって、地元の協力が得やすいと考えました。

784年6月に長岡京の建設が始まり、その年の11月に遷都してしまいます。もちろんまだ都は完成していません。とにかく早く新しい政治を実現したかったのかもしれません。

しかし、785年9月、都造りの責任者、藤原種継が弓で暗殺される事件が発生。

犯人は、藤原氏をねたむ、大友氏と佐伯氏。更に天皇の弟で皇太子であった早良親王も関係していることが分かります。

早良親王は淡路島に流されることが決まりますが、無罪を訴え食を絶ち、淡路に送られる途中で亡くなります。

この後、桓武天皇の周りでいかな人が次々に亡くなったり、長岡京が洪水に襲われたり、不幸な出来事が次々に起こります。占ってもらうと、早良親王の怨霊による祟りだと出ました。

桓武天皇は、この怨霊をとても恐れたそうです。

そこで、未完成の長岡京を捨てて、平安京へ遷都することになりました。


2020年1月24日金曜日

中学2年生理科 肺による呼吸



肺は膨らんで空気を取り入れ、縮んで空気を吐き出しています。この働きを呼吸運動といいます。


肺は自分で動けない

肺には筋肉がないので、自分自身で膨らんだり縮んだりはできません。では、どのようにして呼吸運動をしているのでしょう。

肺は、肋骨と肋骨の間にある筋肉と横隔膜で囲まれた胸こうという空間の中にあります。

横隔膜が下がると胸こうが広がり空気が吸い込まれ、横隔膜が上がると胸こうが縮まり肺から空気が出ていきます。


空気は何処へ行く?

吸い込まれた空気は、気管を通って肺に入ります。肺は気管の先が細かく枝泡かえして気管支と、その先にある肺胞という小さな袋がブドウの房上に集まったものでできています。

ちなみに、肺胞の大きさは直径が0.1ミリ~0.2ミリで、大人だと3億個から5億個あるそうです。

肺胞は、毛細血管で網の目のように包まれ、ここで気体(酸素と二酸化炭素)の交換が行われます。

期待の交換は、濃度の高いほうから低いほうへと自然に移る仕組みです。

肺胞は、心臓から送られてきた血液から二酸化炭素を取り込み、酸素を血管へと送り出しています。

ちなみに私たちは1分間に12回~20回呼吸をします。

1分間に15回とすると、1時間では900回、1日で21600回呼吸していることになります。

2020年1月23日木曜日

中学歴史 墾田永年私財法



定期テストで本当によく出る「墾田永年私財法」について、教科書に書かれていない面を中心に見てみました。

口分田が不足してきた

律令ができ、国の仕組みが整ってくると役人の数が増え、身分に応じて与える田が増えてきました。さらに人口が増加し、口分田が不足。

口分田が不足した理由のもう一つは、重い労役やきびしい税から逃れるために、口分田を捨てて逃亡する農民が増えてことです。捨てられた田は荒れ果ててしまい、口分田として使えなくなりました。


三世一身法(さんぜいっしんのほう)

723年、口分田を増やすために三世一身法が出されます。

新しい灌漑施設を設けて土地を開墾した者は、三世代にわたって土地の私有を認めるというほうです。

すでにある灌漑施設を利用した場合は、一代に限り土地の所有を認めました。

でも結局は、最終的に国に取り上げられることになるので、あまり効果が出ませんでした。


墾田永年私財法

そこで、自分で開梱した土地の永久私有を認める墾田永年私財法が743年に出されます。

しかし、私有には条件がありました。

1、身分によって開墾する土地の面積の制限があった。
2、役所に申し出て開墾が許された土地は、三年以内に開墾が終わらないとその権利を失う。※急性期になるとこの条件はなくなります。

この法律が出されたことで、公地公民がくずれることになるのですが、なぜ公地公民を崩してまで墾田永年私財法を出したのでしょうか。


墾田永年私財法を出した理由1

当時の朝廷はこう考えていたという説があります。

① 田の私有を認めても、税を免除するわけではないので国の収入は増える。
② 口分田は増えないが、耕地全体が増えるので収穫量が増え、国の収入が増える。
③ 開墾した者は、他を私有することができるので喜んで開墾をし、田がどんどん増えていき、国の収入が増える。

つまり、公地公民でなくても朝廷の収入は増えるからいいのではないかということです。


墾田永年私財法を出した理由2

別の説もあります。

墾田永年私財法が出された743年という年は、大仏造立の詔を出した年です。

大仏を作るには多くの人や莫大な費用が必要になります。これを朝廷だけで負担することはできません。

貴族や役人、地方の有力者の協力が必要になります。

そこで、彼らが喜ぶ、私有地を認める墾田永年私財法が出されたのではないかという説です。

これらの人々は、口分田を捨てて逃げた農民などを使い、開墾を進め私有地(荘園)を広げ、力をつけていくようになりました。


2020年1月21日火曜日

中1歴史 奈良時代の文化



710年、平城京に都を移してから、794年平安京に都を移すまでに時代を奈良時代と言います。

唐にたびたべ遣唐使を送っていたので、唐の進んだ文化や制度が日本に伝わりました。


聖武天皇の時代

奈良時代を代表する文化が栄えたのは、聖武天皇の時代。この時代の文化を天平文化と言います。

聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうと考え、地方の国ごとに国分寺と国分尼寺を、都に東大寺を立て、大仏を造立しました。

東大寺には、聖武天皇の遺品をはじめとする1200年以上もまえの品がおよそ1万点納められている正倉院があります。正倉院は、三角形の木材を組み合わせた校倉造で作られ、この部分は時々テストに出るので覚えておきましょう。

753年、唐の仏教を伝えるために鑑真が日本にやってきました。


奈良時代の書物

奈良時代に、古事記と日本書紀という歴史書と、地方の地理、産物、伝承などを国ごとにまとめた風土記という本が作られました。

歴史書は古事記が日本語で書かれ、日本書紀は漢文(中国語)で書かれています。つまり、古事記は国内向けに、日本書紀は海外(主に中国)に向けて書かれたものだと分かります。

日本最古の和歌集、万葉集が作られ、この中には天皇や貴族から農民、防人たちの歌まで約4500首の歌が納められています。



2020年1月20日月曜日

中学歴史 聖武天皇



奈良時代を代表する天皇の一人、聖武天皇について説明します。

天皇になるまで

聖武天皇は、701年藤原京で生まれました。父は文武天皇、母は、藤原不比等の娘の宮子で、幼名を首皇子(おびとのおうじ)と言います。

藤原氏の血を引く初めての皇子でした。

母の宮子は首皇子を生むとすぐうつ病になり、人と会うことができなくなり、首皇子は母と会えないまま幼い時代を過ごします。

聖武天皇が初めて母に会ったのは37歳のときです。

このため首皇子は、母の実家である藤原不比等の家で育てられました。

不比等の家には皇子と同じ年に生まれた安宿姫(光明子)がいて、皇子とは幼なじみになります。

707年に父の文武天皇が無くなると、皇子の祖母が元明天皇に即位します。天皇の母が天皇を継ぐというのは、それまでにはなく異例中の異例のことでした。それまでは次の天皇の母が皇子が成長するまで天皇になるという形でしたが、文武天皇の遺言によって天皇の母が天皇を引き継ぐことになったのです。

714年、首皇子は皇太子になります。皇太子というのは、次の天皇になる人のことです。翌年に元明天皇は皇位を、皇子の叔母にナタル元正天皇に譲り、その翌年首皇子は光明子と結婚しました。


聖武天皇に即位してから

724年首皇子は即位して聖武天皇になりました。

聖武天皇と光明子の間に基王が誕生しますが、728年に亡くなってしまいました。

この基王の死をめぐり、藤原氏が権力を握るために長屋王を罪に陥れます。

729年、長屋王が藤原不比等の4人の息子に無実の罪を着せられて自害。

この息子たちは権力を手に入れますが、737年、都にはやっていた天然痘で死んでしまいました。都の人たちや朝廷に、これは長屋王の呪いではないかとのうわさが広がりました。

738年、政治の混乱を避けるため聖武天皇は光明子の子「阿部内親王」を皇太子に立てました。女性として皇太子になったのは、歴史上阿部内親王1人だけです。

740年、九州で藤原広嗣が反乱を起こし、朝廷はこの反乱を鎮めるために軍隊を送りました。


聖武天皇の行幸

藤原広嗣の乱が治まりそうなとき、聖武天皇は行幸を始めます。

行幸というのは、天皇が都を離れ地方を訪問することです。

この行幸は、聖武天皇が尊敬していた曽祖父の天武天皇が壬申の乱でたどった道と重なります。天武天皇がたどった道を自らもたどることで、天武天皇の行動を追体験するための行幸だったというのが、現在の有力な説となっています。

そして山背国の恭仁京に都を移すとの詔を出し、さらに741年「国分寺建立」の詔も出します。これは、仏教の教えを全国に広め、世の中を安泰にしたいとの願いからでした。

更に743年、近江の紫香楽宮で「大仏造立」に詔を出します。

このすぐ後で恭仁京造営停止、これは恭仁京造営と大仏造立はともにお金がかかり、両方同時に行うのは無理だったからです。

744年聖武天皇は、難波へ向け行幸を始めますが、次の皇太子となる安住親王が病気で亡くなってしまいます。

紫香楽で大仏造立にあらを入れようと決めますが、不自然な火災が多数発生、これは貴族や農民の間に不満がたまり、その人たちが起こしたものと考えられています。

745年聖武天皇は平城京に戻り、奈良に大仏を造立することになります。

その後は、天皇を退いて後も平城京で暮らしました。

2020年1月18日土曜日

中2理科 栄養分の吸収



消化された栄養分はどっから吸収されるか?

消化酵素によって分解された栄養分は、小腸のひだにある柔毛から吸収されます。

ちなみに、人間の腸の長さはおよそ8メートル、内側の半径は2.5センチメートルの管になっています。

柔毛は、表面積を大きくして、効率的に栄養分を吸収するた目にあるもので、柔毛を平らにして伸ばすと、バスケットボールのコート半分くらいの面積になります。


栄養分はどんな形になって吸収されるか

デンプン、たんぱく質、脂肪は、体内に吸収されるとき次のようのものになっています。

デンプン→ブドウ糖
たんぱく質→アミノ酸
脂肪→脂肪酸とモノグリセリド

このうちブドウ糖とアミノ酸は柔毛から毛細血管に入り、肝臓を通って全身に運ばれていきます。

脂肪酸とモノグリセリドは、柔毛の表面から吸収された後再び脂肪となって、リンパ管に入り、更に静脈に入って全身に運ばれます。

水分のほとんどは、小腸と大腸で吸収されます。

2020年1月17日金曜日

中学歴史 大陸の文化を伝えた遣唐使って?



遣唐使は、奈良時代の学習で出てきます。

奈良時代には、唐へたびたび遣唐使を送り、唐の進んだ文化や制度が日本に伝わりました。

さてこのたびたびというのはどれくらいなのでしょうか?

毎年ではありませんよね、では3年おき、それとも5年おきくらいでしょうか?

今の感覚からすると、「たびたび」というとこのくらいの頻度を思い浮かべますが、当時のたびたびというのは20年に1回くらいでした。


遣唐使はとても危険

遣唐使は、朝廷が唐に送った公式な使節です。

奈良時代によく名前が出てきま市が、最初に遣唐使を送ったのは630年、飛鳥時代でした。

この630年から894年に遣唐使が廃止になるまで遣唐使の任命が20回(19回という説もある)ありましたが、そのうちの4回は中止になったので16回派遣されています。

この16回で40隻の遣唐使船が船出し、12隻が遭難するというとても危険な旅を遣唐使たちはしていたのです。

遣唐使船に乗ったのは、日本の代表の大使、副大使、通訳、事務をする役人、留学生、留学僧、旅の無事を祈る神主や占い師も乗っていました。

大使と副大使はそれぞら別の船に乗りました。これは、船が難破してもどちらかの船が大陸にたどり着ければよいと考えていたからです。

このため、大使と副大使がどちらの船に乗るかで争うこともありました。

誰だって、安全な船に乗りたいですからね。


遣唐使船の大きさ

遣唐使船の大きさは(復元船によると)、全長25メートル、幅9.7メートル。

2枚の帆があり、その帆は竹や葦で編んで作られていました。どう考えても風を十分にはらむと思えません。

このため、風によっては人が櫓をこいで(オールを使って)進んだそうです。

1隻に120~150人の人が乗船しました。

この大きさの船が、7世紀には2隻が1組となって、8世紀には4隻が1組となって唐に向かったのです。

701年から奈良時代の終わりまでに遣唐使は5回派遣され、4隻の船がすべて無事で帰国したのは1回だけというとても危険な旅をしていました。



2020年1月16日木曜日

中学理科 心臓についての雑学



心臓の雑学

心臓は、体全体へ血液を送り出すポンプです。人の心臓の大きさは、その人がこぶしを握った大きさくらいです。

地球最大の生物であるシロナガスクジラの心臓は、重さが180㎏、人間の大人約3人分の重さがあります。

心臓の動きを拍動とか心拍といいます。人の心拍は1分間に50~100回程度。心拍は体の大きな動物ほど少なく、小さな動物ほど多くなっています。

体長22メートルのシロナガスクジラの心拍数は、毎分8~10回程度ですが、最近観察されたもので1番少ないときは1分間に2回ということが分かりました。

これに対し体重30gのヨーロッパヒメトガリネズミの心拍数は、毎分1200回というから驚きです。


心臓と血液の雑学

心臓はどんな時でも休むことなく動いています。そのため、たくさんの酸素と栄養が必要です。この酸素と栄養を運んでいるのが血液ですが、心臓に必要な酸素と栄養を運ぶために使われる血液は、心臓が送り出す血液の5%、心臓の大きさから考えるととてもたくさんの量ですね。

心臓は、必要な酸素と栄養分が届いている間は動き続けます。このため、脳が死んでしまった場合でも心臓が動き続けることがあります。これが脳死と言われる状態です。

大人の血液量は、約4~5リットル。けがなどで血液の3分の1が失われると人は死んでしまいます。この血液が心臓から送り出されるわけですが、血液は心臓を出てから30秒から1分程度で心臓に戻ります。

これをもとに、心臓が1日に送り出す血液量を計算すると、およそ8000リットル。

私たちは、こんなに働いてくれる心臓に感謝しなくてはならないかもしれません。

2020年1月15日水曜日

中2理科 唾液の働き



食べ物を体内に吸収できるくらい小さくすることを消化と言います。

その消化を最初にしてくれるのが唾液。

その唾液の働きの実験について動画で説明しました。

唾液の働きの実験

デンプンのりと唾液、デンプンのりと水の入った試験管を2本ずつ用意します。

この2種類の試験管を約40度のお湯につけて10ッ分間置いておきます。

これは、消化が体内で行われるので、実験も体温に近い温度でするためです。

デンプンのりと唾液、デンプンのりと水の2本を1組にして両方の試験管にヨウ素溶液を入れます。

ヨウ素溶液はデンプンに反応すると色が青紫色の変化する薬品です。

ヨウ素溶液が反応したのは、デンプンのりと水が入っている試験管。デンプンのりと唾液が入ってる試験管は反応がありませんでした。

次に同じ組み合わせの試験管2本にベネジクト溶液を入れ加熱します。

ベネジクト溶液は糖に反応すると赤褐色の沈殿ができます。試験管を加熱するとき試験管の中に沸騰石を入れるのを忘れないようにして下さい。この部分は時々テストに出ます。

ベネジクト溶液が反応したのは、デンプンのりと唾液が入っている試験管でした。


実験結果から分かること

1、デンプンのりと唾液が入っていた試験管の中にはデンプンが無くなった。

2、デンプンのりと唾液が入っていた試験管の中には糖ができていた。


結論

唾液にはデンプンを糖に変える働きがある。

この実験から以上のことが推測されました。

2020年1月14日火曜日

中2理科 消化液と消化酵素



食べ物を、体内に吸収できるくらい小さな粒にすることを消化と言いました。

この消化にかかわる液を消化液と言い、消化液の中に特定の栄養に作用してその物質を消化する働きを持つ消化酵素が入っています。

その消化液と消化酵素について説明します。

消化液と消化酵素

最初の消化は口の中で行われます。

ここでは唾液に含まれるアミラーゼという消化酵素がデンプンを分解します。

次は胃です。胃液にはペプシンという消化酵素が含まれ、これがたんぱく質を分解します。

胃液は、塩酸とペプシンが含まれています。塩酸はとても強い酸で、金属も溶かしてしまいます。胃がなぜこの塩酸によって溶けないかというと、胃壁から粘液が出てこの粘液が異を守っているからです。

胃の下には十二指腸があります。

十二指腸自身は消化液を出しませんが、この部分で胆汁とすい液が出てきます。

胆汁は肝臓で作られて胆のうに送られ、そこから十二指腸に運ばれます。

胆汁には消化酵素は含まれていません。

胆汁の働きは、脂肪を水に混ざりやすい状態にすることです。

消化は水の中で行われます。脂肪は油の仲間、そのままでは水と混ざりません。

ですから脂肪を消化されやすい状態にするため胆汁が働くのです。

すい臓から出るすい液は、3つの消化酵素が含まれています。

デンプンに働くアミラーゼ、たんぱく質を分解するトリプシン、脂肪を分解するリパーゼです。

食べ物は次に小腸に送られます。

小腸の壁にも消化酵素があり、さらに分解が進み、小腸の壁にある柔毛から取り入れら毛細血管とリンパ管に送られます。

2020年1月13日月曜日

中学理科 体を流れる2つの液体(血液とリンパ液)



体を流れる2種類の液体とは

私たちの体の中を2種類の液体が流れています。

それは、血液とリンパ液です。

血液には液体成分の血しょう、酸素を運ぶ摂家級、病原体を分解する白血球、出血したとき血液を固める血小板があります。

これに対しリンパ液ですが、リンパ液は血液の液体成分の血しょうが毛細血管からしみだした組織液、その一部がリンパ管に入って流れているもので、リンパ球が多く含まれています。

リンパ球は、病原体を退治する細胞で、白血球の仲間です。(リンパ球は血液の中にも流れています)


リンパ液

リンパ管は欠陥と同じように前進に張り巡らされた管で、この間に集まったリンパ液は左右の鎖骨の下あたりで静脈に入って血液となって流れていきます。

この部分だけ聞くと、血管があればリンパ管はいらないんじゃないかと考える人が出てきそうですが、リンパ液にはリンパ液の役割があります。

リンパ液の役割は、大きくて毛細血管に入れない物質を静脈に届けることです。

特に、細胞がエネルギーを作り出すとき(細胞呼吸)に出る老廃物は、大きくて毛細血管に入ることができません。

このため、リンパ管に入りリンパ液によって静脈まで運ばれるのです。

2020年1月12日日曜日

中学理科 ミドリムシは動物、それとも植物?



ミドリムシの特徴は?

中学1年生の身近な生物の観察で、顕微鏡を使ってミドリムシを見た人もいるでしょうし、単細胞生物と多細胞生物の所で、単細胞生物として紹介されているミドリムシ。

特徴は、鞭毛によって動き回る、体の中に葉緑体を持っている。

このことから、動物でも植物でもない生物と紹介されることがほとんど。

でも動物と植物、どちらかの仲間に入れるとすれば、植物の仲間です。

動物は動くことはできるけれど、自ら栄養分を作ることはできません。だから動物は他の生物を食べることで体内に取り入れます。

ミドリムシは、他の生き物を食べることはなく、自ら栄養分を作り出している、だから植物の仲間と考えられるのです。


動物が植物に変わる単細胞生物がいた

実はミドリムシよりすごい単細胞生物が、2000年に日本の和歌山県で発見されています。

学名は「ハテナ」

最初は動物なんですが、ある特定の藻類を食べるとそれを体内に飼い、その藻類が光合成で作った栄養分をもらって生きる生活を始めます。

そうすると、食べるために必要だった口が退化して消滅してしまうのです。

他の生物を食べなくなった、つまり植物として生活するように生き方を変えるのです。

ただ、分裂して数を増やすときには、2つに分かれる一方しか藻類を受け継げません。

藻類を受け継げなかった「ハテナ」は口が復活して物を食べる動物の単細胞生物に戻ります。

「ハテナ」は、動物として生きる時期と植物として生きる行きを持つ不思議な生物で、「ハテナ」のような生物は今のところほかには見つかっていません。

2020年1月11日土曜日

中2理科 植物と動物の細胞のつくり



植物細胞と動物細胞のつくりについて説明します。

動物細胞と植物細胞に共通している作りは、核と細胞膜です。

細胞膜というのはちょっとイメージし難いでしょうか?

皆さん、シャボン玉を作ったことがあると思います。あのシャボン玉の泡のようなものです。

シャボン玉は触るとすぐにはじけて消えてしまいますが、細胞膜はそんなことはありません。

植物細胞には細胞膜の外側に細胞壁があり、核と細胞壁以外の部分を細胞質と呼んでいます。

植物細胞には、葉緑体と液胞があり、液胞というのは細胞活動でできたものが入っていて、古い細胞ほど液胞は大きく、新しい細胞の液胞は小さくなっています。

この部分が、細胞のつくりで定期テストなどに出やすい部分です。

細胞にはこのほかに、ミトコンドリア、リボゾーム、ゴルジ体などもありますが、こちらはテストに出ることは少ないです。


細胞の観察について

細胞を観察するとき、プレパラートを作りますが、カバーガラスをかけるとき空気の泡が入らないように注意します。

カバーガラスをかけるのと一緒に、核を染め細胞を見やすくする薬品を使います。

この薬品は3種類あるのですが、みなさんは自分が実験で使った薬品だけ憶えて下さい。

1、酢酸オルセイン溶液 核がピン黄色に染まります。
2、酢酸カーミン溶液 核が赤く染まります。
3、酢酸ダーリア溶液 核が青紫色に染まります。

カバーガラスをかけたあと、カバーガラスを上から押すと余分な液がはみ出しますが、これはろ紙で拭き取りましょう。

上からカバーガラスを押すのは、細胞が重ならないようにして観察をしやすくするためです。

以上を覚えて下さい。