2020年2月4日火曜日

中1歴史 平安時代後期



今回は、武士の登場から平安時代の後期についてお話します。

武士団の登場

中央で藤原氏が摂関政治を行っているころ、地方では政治が乱れ、生活できない農民の中に盗賊になるものが現れてきます。

また、国司の中には、自分の収入を増やすために、農民を苦しめるものがいました。

そこで、自分の土地は自分の手で守ろうと武装する農民が出てきました。

それらを、有力な農民や地方の豪族がまとめ上げ、指導者となって武士団ができてきました。

しかし、豪族同士、武士団同士の対立もあり、これらの武士団をまとめ上げる有力な武士団が必要になってきます。

その武士団になったのが、清和天皇の子孫の源氏と、桓武天皇の子孫の平家です。

武士団は、地方で起きた反乱を武力で解決して力を強め、朝廷も武士団を頼るようになります。藤原氏は、朝廷の警護に源氏を使い、院政の時代院の警護は主に平氏が行っています。


院政の始まり

藤原頼道が天皇に嫁がせた娘に皇子が生まれないことで、摂関家の影響力が低下していきます。

1068年の即位した後三条天皇は、母方が藤原氏でない天皇でした。

このため、摂関家の力を弱めるような政治を行います。

また、1072年に即位した白河天皇も、藤原氏に遠慮ない政治を行いました。

1086年、白川天皇は、天皇を退位し白河上皇となり院政を始めます。

院政とは、上皇が天皇の後継人として天皇に変わって行う政治です。

院は武力の後ろ盾を強めていき、武士との結びつきが強くなり、源氏や平氏が中央に進出していきました。


平家の時代へ

1156年、天皇の跡継ぎをめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起きます。

さらに、1159年平治の乱が起き、ここで活躍した平清盛が力をつけていきました。

1167年、平清盛は武士として初めて朝廷の最高職「太政大臣」になり、自分の一族を朝廷の高い役職に就け権力を独占していきました。

また、今の兵庫県の神戸の港を改修し、日宋貿易にも力を入れました。


2020年2月3日月曜日

中学歴史 かな文字文学の作者たち



平安時代、遣唐使を廃止したことにより国風文化が生まれ、日本語の音を文字で表す「かな文字」が生まれました。

このかな文字で作品を書いた、代表的な3人を紹介します。


紀貫之

紀貫之は、醍醐天皇の命令で『古今和歌集』を編纂しました。

この和歌集の作者たちは貴族が中心で、ここの納められている和歌には、奈良時代の『万葉集』のような素朴さがありません。

紀貫之は自分自身でも本を書いています。

それが『土佐日記』です。

土佐の国守の任期が終わり、都に着くまでのことを書いたものです。

ただこの時代、男はかな文字を使わないというプライドのようなものがあり、日記は女性が書いたという形になっています。

今の日記と違うところは、自分自身をほかの誰かが見ているという形で書かれていて、批判する表現が沢山出てきます。


物語の初め

日本で最初に書かれたという物語『竹取物語』も平安時代にかな文字で書かれたものです。

ただし、誰が書いたのか作者は分かっていません。

かな文字で書かれた文学の作者に女性が多いのは、当時の男性は体面にこだわり、和歌以外ではかな文字を使わなかったからです。

もう一つは、宮廷で皇后などに使える女性が増えて、それらの女性が高い教養を身につけたこともあります。


清少納言

少納言は、宮中での呼び名で「清少納言」というのは実際の名前ではありません。

清少納言に父は「清原元輔」といい、その清原の一文字をとって「清少納言」と呼ばれていたようです。

一条天皇の皇后「定子」に使え、才能のすばらしさは宮廷の中でも際立っていました。

彼女の文章は歯切れがよく、短い言葉の中に複雑な感情を組み込む美しい文章で、男性的で暗さがないのが特徴です。


紫式部

紫式部の「式部」というのも「少納言」と同じで、宮中での呼び名です。

紫式部は役人の「藤原為時」の娘で、宮中での呼び名は「藤式部」でした。

紫式部と呼ばれるようになるのは、彼女が亡くなった後で、『源氏物語』に登場する「紫の上」という女性にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。

紫式部は、一度結婚しますが夫が亡くなり、その淋しさを紛らわすために『源氏物語』を書き始めました。

宮中に上がったのは、藤原道長が『源氏物語』の評判を聞き、一条天皇の中宮だった娘の「彰子」の女房(女官)に望んだからです。

紫式部は、まじめで控えめな性格でしたが、おおらかさを持っていました。

彼女の人間に対する深い観察力は、物語の登場人物の心をきめ細やかに描き出しています。