2020年2月3日月曜日
中学歴史 かな文字文学の作者たち
平安時代、遣唐使を廃止したことにより国風文化が生まれ、日本語の音を文字で表す「かな文字」が生まれました。
このかな文字で作品を書いた、代表的な3人を紹介します。
紀貫之
紀貫之は、醍醐天皇の命令で『古今和歌集』を編纂しました。
この和歌集の作者たちは貴族が中心で、ここの納められている和歌には、奈良時代の『万葉集』のような素朴さがありません。
紀貫之は自分自身でも本を書いています。
それが『土佐日記』です。
土佐の国守の任期が終わり、都に着くまでのことを書いたものです。
ただこの時代、男はかな文字を使わないというプライドのようなものがあり、日記は女性が書いたという形になっています。
今の日記と違うところは、自分自身をほかの誰かが見ているという形で書かれていて、批判する表現が沢山出てきます。
物語の初め
日本で最初に書かれたという物語『竹取物語』も平安時代にかな文字で書かれたものです。
ただし、誰が書いたのか作者は分かっていません。
かな文字で書かれた文学の作者に女性が多いのは、当時の男性は体面にこだわり、和歌以外ではかな文字を使わなかったからです。
もう一つは、宮廷で皇后などに使える女性が増えて、それらの女性が高い教養を身につけたこともあります。
清少納言
少納言は、宮中での呼び名で「清少納言」というのは実際の名前ではありません。
清少納言に父は「清原元輔」といい、その清原の一文字をとって「清少納言」と呼ばれていたようです。
一条天皇の皇后「定子」に使え、才能のすばらしさは宮廷の中でも際立っていました。
彼女の文章は歯切れがよく、短い言葉の中に複雑な感情を組み込む美しい文章で、男性的で暗さがないのが特徴です。
紫式部
紫式部の「式部」というのも「少納言」と同じで、宮中での呼び名です。
紫式部は役人の「藤原為時」の娘で、宮中での呼び名は「藤式部」でした。
紫式部と呼ばれるようになるのは、彼女が亡くなった後で、『源氏物語』に登場する「紫の上」という女性にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。
紫式部は、一度結婚しますが夫が亡くなり、その淋しさを紛らわすために『源氏物語』を書き始めました。
宮中に上がったのは、藤原道長が『源氏物語』の評判を聞き、一条天皇の中宮だった娘の「彰子」の女房(女官)に望んだからです。
紫式部は、まじめで控えめな性格でしたが、おおらかさを持っていました。
彼女の人間に対する深い観察力は、物語の登場人物の心をきめ細やかに描き出しています。
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