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中1歴史 平安時代後期
今回は、武士の登場から平安時代の後期についてお話します。
武士団の登場
中央で藤原氏が摂関政治を行っているころ、地方では政治が乱れ、生活できない農民の中に盗賊になるものが現れてきます。
また、国司の中には、自分の収入を増やすために、農民を苦しめるものがいました。
そこで、自分の土地は自分の手で守ろうと武装する農民が出てきました。
それらを、有力な農民や地方の豪族がまとめ上げ、指導者となって武士団ができてきました。
しかし、豪族同士、武士団同士の対立もあり、これらの武士団をまとめ上げる有力な武士団が必要になってきます。
その武士団になったのが、清和天皇の子孫の源氏と、桓武天皇の子孫の平家です。
武士団は、地方で起きた反乱を武力で解決して力を強め、朝廷も武士団を頼るようになります。藤原氏は、朝廷の警護に源氏を使い、院政の時代院の警護は主に平氏が行っています。
院政の始まり
藤原頼道が天皇に嫁がせた娘に皇子が生まれないことで、摂関家の影響力が低下していきます。
1068年の即位した後三条天皇は、母方が藤原氏でない天皇でした。
このため、摂関家の力を弱めるような政治を行います。
また、1072年に即位した白河天皇も、藤原氏に遠慮ない政治を行いました。
1086年、白川天皇は、天皇を退位し白河上皇となり院政を始めます。
院政とは、上皇が天皇の後継人として天皇に変わって行う政治です。
院は武力の後ろ盾を強めていき、武士との結びつきが強くなり、源氏や平氏が中央に進出していきました。
平家の時代へ
1156年、天皇の跡継ぎをめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起きます。
さらに、1159年平治の乱が起き、ここで活躍した平清盛が力をつけていきました。
1167年、平清盛は武士として初めて朝廷の最高職「太政大臣」になり、自分の一族を朝廷の高い役職に就け権力を独占していきました。
また、今の兵庫県の神戸の港を改修し、日宋貿易にも力を入れました。
2020年2月3日月曜日
中学歴史 かな文字文学の作者たち
平安時代、遣唐使を廃止したことにより国風文化が生まれ、日本語の音を文字で表す「かな文字」が生まれました。
このかな文字で作品を書いた、代表的な3人を紹介します。
紀貫之
紀貫之は、醍醐天皇の命令で『古今和歌集』を編纂しました。
この和歌集の作者たちは貴族が中心で、ここの納められている和歌には、奈良時代の『万葉集』のような素朴さがありません。
紀貫之は自分自身でも本を書いています。
それが『土佐日記』です。
土佐の国守の任期が終わり、都に着くまでのことを書いたものです。
ただこの時代、男はかな文字を使わないというプライドのようなものがあり、日記は女性が書いたという形になっています。
今の日記と違うところは、自分自身をほかの誰かが見ているという形で書かれていて、批判する表現が沢山出てきます。
物語の初め
日本で最初に書かれたという物語『竹取物語』も平安時代にかな文字で書かれたものです。
ただし、誰が書いたのか作者は分かっていません。
かな文字で書かれた文学の作者に女性が多いのは、当時の男性は体面にこだわり、和歌以外ではかな文字を使わなかったからです。
もう一つは、宮廷で皇后などに使える女性が増えて、それらの女性が高い教養を身につけたこともあります。
清少納言
少納言は、宮中での呼び名で「清少納言」というのは実際の名前ではありません。
清少納言に父は「清原元輔」といい、その清原の一文字をとって「清少納言」と呼ばれていたようです。
一条天皇の皇后「定子」に使え、才能のすばらしさは宮廷の中でも際立っていました。
彼女の文章は歯切れがよく、短い言葉の中に複雑な感情を組み込む美しい文章で、男性的で暗さがないのが特徴です。
紫式部
紫式部の「式部」というのも「少納言」と同じで、宮中での呼び名です。
紫式部は役人の「藤原為時」の娘で、宮中での呼び名は「藤式部」でした。
紫式部と呼ばれるようになるのは、彼女が亡くなった後で、『源氏物語』に登場する「紫の上」という女性にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。
紫式部は、一度結婚しますが夫が亡くなり、その淋しさを紛らわすために『源氏物語』を書き始めました。
宮中に上がったのは、藤原道長が『源氏物語』の評判を聞き、一条天皇の中宮だった娘の「彰子」の女房(女官)に望んだからです。
紫式部は、まじめで控えめな性格でしたが、おおらかさを持っていました。
彼女の人間に対する深い観察力は、物語の登場人物の心をきめ細やかに描き出しています。
2020年1月31日金曜日
中学歴史 最澄と空海
平安時代の前期、唐から新しい仏教を伝えた「最澄」と「空海」について説明しました。
この二人が伝えた仏教は、それまでの仏教とどこが異なっていたのでしょうか?
それまでの仏教は、僧が修行で悟りを開くことが目的でしたが、新しい仏教は「すべての人々を救う」という面を持っていました。
最澄は、法華経を重視し、僧が厳しい修行をすることによって人々を救うことができると考えていました。
これに対し空海は社交的で、どのようにしたら自分の教えが人々に分かりやすく伝わるだろうかと、常に工夫をしていました。
最澄
767年、最長は、今の滋賀県大津市で生まれました。12歳で近江の国分寺住職の弟子になり、その後僧になって名前を最澄とします。
19歳で東大寺から正式な僧として認められ、比叡山に小盛修業しました。
707年、内供奉となり、そこで桓武天皇に見いだされて、804年に還学生として唐にわたりました。
最澄は唐についても長安にはいかず、天台宗が開かれた天台に行き、そこで多くの高僧から仏教を学びます。そして、約350巻の仏教典を書き写し、翌年帰国のときに持ち帰りました。最澄が持ち帰った経典は、これを含めおよそ460巻だそうです。
806年、桓武天皇の保護を受け、天台宗を開き、比叡山に延暦寺を立てました。
最澄は、中国から帰国した空海とも交流しましたが、考え方の違いから数年で交流は途絶えました。
空海
空海は、774年、今の香川県善通寺市に生まれました。15歳で学者のおじから儒教を学び、18歳で都の大学に入りやく人になるための勉強を始まます。
しかし大学で、一人の僧と出会い、仏教の道に入る決心をして大学をやめ、四国の山中で修業を始めました。
31歳のとき東大寺の戒律を受け正式な僧となり、その年留学生として唐に渡ります。
このときの遣唐使船の別の船には、最澄が乗っていました。
長安では青龍寺の高僧「恵果」から教えを受け、その能力が認められ、遍照金剛という名前を与えられ、恵果の後を継いで「密教第八祖」となりました。
留学生として20年長安で勉強する予定が、2年で帰国し、このため朝廷は空海が都に入ることを許しませんでした。
しかし、809年、嵯峨天皇が即位すると京都に入ることを許されます。
816年、朝廷から高野山を与えられ、3年後に金剛峯寺を建立。
823年には、京都の教王護国寺(東寺)を与えられ、真言宗を広めました。
828年、京都に「綜芸種智院」という僧でなく一般の人も儒教や仏教を学べる機関を作りました。
2020年1月27日月曜日
中学歴史 桓武天皇と長岡京
桓武天皇といえば、都を平城京に移したときの天皇ですが、平城京の前に長岡京という都を作っていました。その長岡京と桓武天皇について動画で話しました。
桓武天皇が誕生するまで
770年、称徳天皇が独身のまま、後継ぎを決めずに亡くなりました。
そこで、藤原百川が、「白壁王を皇太子にする」という偽の遺言を発表、62歳の光仁天皇が誕生します。光仁天皇は、天智天皇の孫にあたり、奈良時代天武天皇系で受け継がれてきた皇位が、天智系に移ります。
光仁天皇は即位すると、皇后の井上内親王の間に出来た他戸親王を皇太子にします。
ただ、井上内親王は聖武天皇の皇女、天武系の人物です。
藤原百川は、井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたとして、幽閉、地位を奪い、2人は亡くなってしまいました。
そこで、光仁天皇の長男、山部親王が皇太子になり、781年に即位して桓武天皇が誕生します。このとき桓武天皇は45歳でした。
なぜ長男なのに、皇太子になれなかったかというと、桓武天皇の母は渡来系の子孫で、身分が低いと考えられていました。このため桓武天皇は幼いときに寺に預けられ、一生を僧侶として過ごすはずでした。
しかし、藤原百川のおかげで、父が光仁天皇に即位し皇族に復帰、朝廷で働けるようになり、更に天皇にまでなったのです。桓武天皇は、藤原百川を私の恩人だと言っています。
長岡京造りへ
長い間朝廷の仕事をして、政治の問題点を知っていた桓武天皇は、優れた人材を重要な役につけ、能力の低いもの、不誠実なものを役から外しました。
更に、貧しい農民のための改革も行いました。
平城京では、都の中に寺院が多くあり、仏教勢力が政治にまで影響を及ぼしていました。
これを改め、律令政治の立て直しを図るため新しい都を作ろうと決心します。
これが長岡京です。
場所を決めた理由は、交通の便がいいこと、桓武天皇と、都造りの責任者である藤原種継の母の実家があったことです。
これによって、地元の協力が得やすいと考えました。
784年6月に長岡京の建設が始まり、その年の11月に遷都してしまいます。もちろんまだ都は完成していません。とにかく早く新しい政治を実現したかったのかもしれません。
しかし、785年9月、都造りの責任者、藤原種継が弓で暗殺される事件が発生。
犯人は、藤原氏をねたむ、大友氏と佐伯氏。更に天皇の弟で皇太子であった早良親王も関係していることが分かります。
早良親王は淡路島に流されることが決まりますが、無罪を訴え食を絶ち、淡路に送られる途中で亡くなります。
この後、桓武天皇の周りでいかな人が次々に亡くなったり、長岡京が洪水に襲われたり、不幸な出来事が次々に起こります。占ってもらうと、早良親王の怨霊による祟りだと出ました。
桓武天皇は、この怨霊をとても恐れたそうです。
そこで、未完成の長岡京を捨てて、平安京へ遷都することになりました。
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