2020年1月27日月曜日

中学歴史 桓武天皇と長岡京



桓武天皇といえば、都を平城京に移したときの天皇ですが、平城京の前に長岡京という都を作っていました。その長岡京と桓武天皇について動画で話しました。

桓武天皇が誕生するまで

770年、称徳天皇が独身のまま、後継ぎを決めずに亡くなりました。

そこで、藤原百川が、「白壁王を皇太子にする」という偽の遺言を発表、62歳の光仁天皇が誕生します。光仁天皇は、天智天皇の孫にあたり、奈良時代天武天皇系で受け継がれてきた皇位が、天智系に移ります。

光仁天皇は即位すると、皇后の井上内親王の間に出来た他戸親王を皇太子にします。

ただ、井上内親王は聖武天皇の皇女、天武系の人物です。

藤原百川は、井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたとして、幽閉、地位を奪い、2人は亡くなってしまいました。

そこで、光仁天皇の長男、山部親王が皇太子になり、781年に即位して桓武天皇が誕生します。このとき桓武天皇は45歳でした。

なぜ長男なのに、皇太子になれなかったかというと、桓武天皇の母は渡来系の子孫で、身分が低いと考えられていました。このため桓武天皇は幼いときに寺に預けられ、一生を僧侶として過ごすはずでした。

しかし、藤原百川のおかげで、父が光仁天皇に即位し皇族に復帰、朝廷で働けるようになり、更に天皇にまでなったのです。桓武天皇は、藤原百川を私の恩人だと言っています。


長岡京造りへ

長い間朝廷の仕事をして、政治の問題点を知っていた桓武天皇は、優れた人材を重要な役につけ、能力の低いもの、不誠実なものを役から外しました。

更に、貧しい農民のための改革も行いました。

平城京では、都の中に寺院が多くあり、仏教勢力が政治にまで影響を及ぼしていました。

これを改め、律令政治の立て直しを図るため新しい都を作ろうと決心します。

これが長岡京です。

場所を決めた理由は、交通の便がいいこと、桓武天皇と、都造りの責任者である藤原種継の母の実家があったことです。

これによって、地元の協力が得やすいと考えました。

784年6月に長岡京の建設が始まり、その年の11月に遷都してしまいます。もちろんまだ都は完成していません。とにかく早く新しい政治を実現したかったのかもしれません。

しかし、785年9月、都造りの責任者、藤原種継が弓で暗殺される事件が発生。

犯人は、藤原氏をねたむ、大友氏と佐伯氏。更に天皇の弟で皇太子であった早良親王も関係していることが分かります。

早良親王は淡路島に流されることが決まりますが、無罪を訴え食を絶ち、淡路に送られる途中で亡くなります。

この後、桓武天皇の周りでいかな人が次々に亡くなったり、長岡京が洪水に襲われたり、不幸な出来事が次々に起こります。占ってもらうと、早良親王の怨霊による祟りだと出ました。

桓武天皇は、この怨霊をとても恐れたそうです。

そこで、未完成の長岡京を捨てて、平安京へ遷都することになりました。


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