2020年1月20日月曜日

中学歴史 聖武天皇



奈良時代を代表する天皇の一人、聖武天皇について説明します。

天皇になるまで

聖武天皇は、701年藤原京で生まれました。父は文武天皇、母は、藤原不比等の娘の宮子で、幼名を首皇子(おびとのおうじ)と言います。

藤原氏の血を引く初めての皇子でした。

母の宮子は首皇子を生むとすぐうつ病になり、人と会うことができなくなり、首皇子は母と会えないまま幼い時代を過ごします。

聖武天皇が初めて母に会ったのは37歳のときです。

このため首皇子は、母の実家である藤原不比等の家で育てられました。

不比等の家には皇子と同じ年に生まれた安宿姫(光明子)がいて、皇子とは幼なじみになります。

707年に父の文武天皇が無くなると、皇子の祖母が元明天皇に即位します。天皇の母が天皇を継ぐというのは、それまでにはなく異例中の異例のことでした。それまでは次の天皇の母が皇子が成長するまで天皇になるという形でしたが、文武天皇の遺言によって天皇の母が天皇を引き継ぐことになったのです。

714年、首皇子は皇太子になります。皇太子というのは、次の天皇になる人のことです。翌年に元明天皇は皇位を、皇子の叔母にナタル元正天皇に譲り、その翌年首皇子は光明子と結婚しました。


聖武天皇に即位してから

724年首皇子は即位して聖武天皇になりました。

聖武天皇と光明子の間に基王が誕生しますが、728年に亡くなってしまいました。

この基王の死をめぐり、藤原氏が権力を握るために長屋王を罪に陥れます。

729年、長屋王が藤原不比等の4人の息子に無実の罪を着せられて自害。

この息子たちは権力を手に入れますが、737年、都にはやっていた天然痘で死んでしまいました。都の人たちや朝廷に、これは長屋王の呪いではないかとのうわさが広がりました。

738年、政治の混乱を避けるため聖武天皇は光明子の子「阿部内親王」を皇太子に立てました。女性として皇太子になったのは、歴史上阿部内親王1人だけです。

740年、九州で藤原広嗣が反乱を起こし、朝廷はこの反乱を鎮めるために軍隊を送りました。


聖武天皇の行幸

藤原広嗣の乱が治まりそうなとき、聖武天皇は行幸を始めます。

行幸というのは、天皇が都を離れ地方を訪問することです。

この行幸は、聖武天皇が尊敬していた曽祖父の天武天皇が壬申の乱でたどった道と重なります。天武天皇がたどった道を自らもたどることで、天武天皇の行動を追体験するための行幸だったというのが、現在の有力な説となっています。

そして山背国の恭仁京に都を移すとの詔を出し、さらに741年「国分寺建立」の詔も出します。これは、仏教の教えを全国に広め、世の中を安泰にしたいとの願いからでした。

更に743年、近江の紫香楽宮で「大仏造立」に詔を出します。

このすぐ後で恭仁京造営停止、これは恭仁京造営と大仏造立はともにお金がかかり、両方同時に行うのは無理だったからです。

744年聖武天皇は、難波へ向け行幸を始めますが、次の皇太子となる安住親王が病気で亡くなってしまいます。

紫香楽で大仏造立にあらを入れようと決めますが、不自然な火災が多数発生、これは貴族や農民の間に不満がたまり、その人たちが起こしたものと考えられています。

745年聖武天皇は平城京に戻り、奈良に大仏を造立することになります。

その後は、天皇を退いて後も平城京で暮らしました。

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