2020年1月31日金曜日
中学歴史 最澄と空海
平安時代の前期、唐から新しい仏教を伝えた「最澄」と「空海」について説明しました。
この二人が伝えた仏教は、それまでの仏教とどこが異なっていたのでしょうか?
それまでの仏教は、僧が修行で悟りを開くことが目的でしたが、新しい仏教は「すべての人々を救う」という面を持っていました。
最澄は、法華経を重視し、僧が厳しい修行をすることによって人々を救うことができると考えていました。
これに対し空海は社交的で、どのようにしたら自分の教えが人々に分かりやすく伝わるだろうかと、常に工夫をしていました。
最澄
767年、最長は、今の滋賀県大津市で生まれました。12歳で近江の国分寺住職の弟子になり、その後僧になって名前を最澄とします。
19歳で東大寺から正式な僧として認められ、比叡山に小盛修業しました。
707年、内供奉となり、そこで桓武天皇に見いだされて、804年に還学生として唐にわたりました。
最澄は唐についても長安にはいかず、天台宗が開かれた天台に行き、そこで多くの高僧から仏教を学びます。そして、約350巻の仏教典を書き写し、翌年帰国のときに持ち帰りました。最澄が持ち帰った経典は、これを含めおよそ460巻だそうです。
806年、桓武天皇の保護を受け、天台宗を開き、比叡山に延暦寺を立てました。
最澄は、中国から帰国した空海とも交流しましたが、考え方の違いから数年で交流は途絶えました。
空海
空海は、774年、今の香川県善通寺市に生まれました。15歳で学者のおじから儒教を学び、18歳で都の大学に入りやく人になるための勉強を始まます。
しかし大学で、一人の僧と出会い、仏教の道に入る決心をして大学をやめ、四国の山中で修業を始めました。
31歳のとき東大寺の戒律を受け正式な僧となり、その年留学生として唐に渡ります。
このときの遣唐使船の別の船には、最澄が乗っていました。
長安では青龍寺の高僧「恵果」から教えを受け、その能力が認められ、遍照金剛という名前を与えられ、恵果の後を継いで「密教第八祖」となりました。
留学生として20年長安で勉強する予定が、2年で帰国し、このため朝廷は空海が都に入ることを許しませんでした。
しかし、809年、嵯峨天皇が即位すると京都に入ることを許されます。
816年、朝廷から高野山を与えられ、3年後に金剛峯寺を建立。
823年には、京都の教王護国寺(東寺)を与えられ、真言宗を広めました。
828年、京都に「綜芸種智院」という僧でなく一般の人も儒教や仏教を学べる機関を作りました。
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